2022年6月23日木曜日

『宇治拾遺物語』  巻第二ノ十四 「​ 柿の木に仏現ずる事」


おはなし


 昔延喜の御門御時五条の天神の辺に大きなる柿の木の実ならぬあり その木の上に仏現れておはします 京中の人挙りて参りけり 馬車も立て敢へず人もせき敢へず拝み喧騒りけり 
 かくするほどに五六日あるに 右大臣殿心得ず思し給ける間誠の仏の世の末に出で給ふべきにあらず 我行きて試みんと思して 昼の装束美はしくして 梹榔の車に乗りて 御前多く具して集まり集ひたる者ども退けさせて 車かけ外して榻を立てて 木末を目もたたかず 他見もせずして凝視りて 一時ばかりおはするに この仏暫しこそ花も降らせ光をも放ち給ひけれ 余りに余りに凝視られてし侘て 大きなる糞鵄の羽折れたる 土に落ちて惑ひふためくを 童部ども寄りて打殺してけり 大臣はさればこそとて帰り給ひぬ さて時の人この大臣をいみじく賢き人にておはしますとぞ評判りける


雑感


仏の登場がいかにも俗っぽい柿の木の上だったり、右大臣が只管凝視することで仏を地に落としたり、何かと面白いポイントの多い話。描かれるのは、聖なるものとそれを暴こうとするものの対立する構図である。

読んでいて自然と頭に浮かんだのは、ゴーストライター騒動の佐村河内氏のこと。社会的には抹殺されたも同然の状態の彼も、打ち殺されなくて良かったと思うべきか。そもそもこの偽仏も、死に値する罪を犯したとは思えないのだが、聖を騙るものに対する制裁の苛烈さは、昔から変わらないようだ。こうした「仏殺し」は、今でも至る所でみられる。右大臣よりも、むしろ庶民の目の方が恐ろしい時代である。





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