2016年10月27日木曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ二「丹波国篠村に平茸生ふる事」


おはなし


 これも今はむかし。 丹波国篠村といふところに。 年比平茸やるかたもなくおほかりけり。 里村のものこれをとりて人にもこゝろざし。 またわれもくひなどしてとしごろすぐるほどに。 その里にとりてむねとあるものゝゆめに。 かしらおつかみなる法師どもの二三十人ばかりいできて。 申べきことゝいひければ。 いかなるひとぞととふに。 この法師ばらはこのとし比も宮づかひよくして候つるが。 このさとの縁つきていまはよそへまかり候なんずることの。 かつはあはれに。 もしまたことのよしを申さではとおもひて。 このよしを申なりといふとみて。 うちおどろきて。 こはなにごとぞと妻や子やなどにかたるほどに。 またその里の人の夢にもこの定に見えたりとて。 あまた同様にかたれば。 心もえでとしもくれぬ。 さて次のとしの九・十月にもなりぬるに。 さき\"/いでくるほどなれば。 山に入て茸をもとむるに。 すべて蔬※1おほかたみえず。 いかなる事にかと里国の者思ひてすぐるほどに。 故仲胤僧都とて説法ならびなき人いましけり。 この事をきゝて。 こはいかに。 不浄説法する法師平茸にむまるといふことのある物をとの給ひてけり。 さればいかにも\/平茸はくはざらんにことかくまじき物とぞ。

(wikisourceより引用)

雑感


律儀に別れを報告してくるあたりに不浄の僧の改心が伺えるが、物語の筋にブランクがあり、すんなりと呑み込めない。平茸に転生してしまった法師たちは、なぜその境遇を脱することができたのだろうか。美味しく食されたことで成仏したのか、あるいは村人たちに噛まれることで償いを済ませたということなのか。

また、平茸に転生した法師は数十人いるようだが、全員が同じタイミングで解放されたのは何故か。与えられた情報から読み取るに、個々に食されることで平茸から解き放たれていったというより、それぞれの被食の集積が臨界点を突破したことで、集合的に離脱したように見える。どこの世界でもチーム成績というものは大事なようだ。

もう一つ気になるのは最後の一文。これを読む限り、平茸を食することを推奨されてはいないようである。好ましくない存在からの感謝という形で、警鐘を鳴らすという構造は、巻第一ノ一「道命阿闍梨和泉式部の許において読経し五条の道祖神聴聞の事」と同じもの。語り手はアイロニカルな仕掛けが好みらしい。



2016年10月26日水曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ一「道命阿闍梨和泉式部の許において読経し五条の道祖神聴聞の事」


おはなし


今はむかし。 道命阿闍梨とて傅殿の子にいろにふけりたる僧ありけり。 和泉式部にかよひけり。 経をめでたくよみけり。 それがいづみし*きぶがりゆきてふしたりけるに。 目さめて経を心をすましておよみける程に。 八巻よみはてゝあかつきにまどろまんとするほどに。 人のけはひのし*ければ。あれはたれぞととひければ。 をのれは五条西洞院の辺に候おきなに候とこたへければ。 こはなにごとぞと道命いひければ。 との御経をこよひうけたまはりぬることの生々世々わすれがたく候といひければ。 道命法花経をよみたてまつることはつねのことなり。 などこよひしもいはるゝぞといひければ。 五条の斎いはく。 清くてよみまいらせ給ときは。 梵天帝尺をはじめたてまつりて聴聞せさせ給へば。 おきななどはちかづきまいりてうけたまはるにをよび候はず。 こよひは御行水も候はでよみたてまつらせ給へば。梵天帝尺も御聴聞候はぬひまにて。 おきなまいりよりてうけたまはりてさぶらひぬるとの。 わすれがたく候なりとのたまひけり。 さればはかなく「さい」よみ奉るとも。 きよくてよみたてまつるべきとなり。 念仏読経経威儀をやぶることなかれと。 恵心の御房もいましめ給にこそ。

(wikisourceより引用)


雑感


こういった仏教説話を正しく読み解く為には、仏教についての専門的知識が当然の如く必要になるが、当ブログではそういった正当な読みは採用しない。かっこつけて書いたが、要は知らないだけである。だが正しい読みのできない者が、テキストについて何も書いてはならないとすると、少しもったいない。リテラシーのない人間なりに、読んで思ったことを書き連ねたい。

この話は、卑しい翁からの感謝を通じて、行水を怠った僧の横着を指摘しているようだ。この翁が文字通りの老人を意味するのか、何らかの精霊を表しているのかは知らないが、逆説的に警告するという構造は興味深い。

ただ常識的な現代人の感覚からすると、この語り手からは強いエリート主義の香りが漂っているように感じられる。宗教的文脈を抜きにすると、今日のフィクションで前面に押し出すのは難しい思想だとは思うが、その違和感が楽しい。求道者は下にかまっていられない、というのもある意味真実だろう。