2016年10月26日水曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ一「道命阿闍梨和泉式部の許において読経し五条の道祖神聴聞の事」


おはなし


今はむかし。 道命阿闍梨とて傅殿の子にいろにふけりたる僧ありけり。 和泉式部にかよひけり。 経をめでたくよみけり。 それがいづみし*きぶがりゆきてふしたりけるに。 目さめて経を心をすましておよみける程に。 八巻よみはてゝあかつきにまどろまんとするほどに。 人のけはひのし*ければ。あれはたれぞととひければ。 をのれは五条西洞院の辺に候おきなに候とこたへければ。 こはなにごとぞと道命いひければ。 との御経をこよひうけたまはりぬることの生々世々わすれがたく候といひければ。 道命法花経をよみたてまつることはつねのことなり。 などこよひしもいはるゝぞといひければ。 五条の斎いはく。 清くてよみまいらせ給ときは。 梵天帝尺をはじめたてまつりて聴聞せさせ給へば。 おきななどはちかづきまいりてうけたまはるにをよび候はず。 こよひは御行水も候はでよみたてまつらせ給へば。梵天帝尺も御聴聞候はぬひまにて。 おきなまいりよりてうけたまはりてさぶらひぬるとの。 わすれがたく候なりとのたまひけり。 さればはかなく「さい」よみ奉るとも。 きよくてよみたてまつるべきとなり。 念仏読経経威儀をやぶることなかれと。 恵心の御房もいましめ給にこそ。

(wikisourceより引用)


雑感


こういった仏教説話を正しく読み解く為には、仏教についての専門的知識が当然の如く必要になるが、当ブログではそういった正当な読みは採用しない。かっこつけて書いたが、要は知らないだけである。だが正しい読みのできない者が、テキストについて何も書いてはならないとすると、少しもったいない。リテラシーのない人間なりに、読んで思ったことを書き連ねたい。

この話は、卑しい翁からの感謝を通じて、行水を怠った僧の横着を指摘しているようだ。この翁が文字通りの老人を意味するのか、何らかの精霊を表しているのかは知らないが、逆説的に警告するという構造は興味深い。

ただ常識的な現代人の感覚からすると、この語り手からは強いエリート主義の香りが漂っているように感じられる。宗教的文脈を抜きにすると、今日のフィクションで前面に押し出すのは難しい思想だとは思うが、その違和感が楽しい。求道者は下にかまっていられない、というのもある意味真実だろう。





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