2016年11月9日水曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ三「鬼に瘤取らるる事」


おはなし


 これもいまはむかし。 右のかほに大なるこぶあるおきなありけり。 大よそ山へ行ぬ。 雨風はしたなくて帰にをよばで。 山の中に心にもあらずとまりぬ。 又木こりもなかりけり。 おそろしさすべきかたなし。

(wikisourceより引用 冒頭部のみ)

雑感


 以前テレビの深夜番組で、昔話のあらすじを町行く人に聞いて回るという企画を、やっていたことがあった。慣れ親しんでいる筈の物語であっても、いざ説明しろと言われると難しいようで、断片的にしか思い出せなかったり、自らストーリーを創作し出したりと、苦戦する人が続出していた。その中の一つに「こぶ取り爺さん」も取り上げられていたが、挑戦者達の惨敗具合は特に酷いもので、そもそも“小太り爺さん”ではないかという勘違いをはじめ、まともにストーリーを思い描けない者も多くいた。

 こぶ取り爺さんが浸透度の点で他のメジャーなおとぎ話に見劣りするのは、ラストの不条理性に原因があるかもしれない。無欲の爺と有欲の爺が対照的な結末を迎える事で、欲を持つ事を戒めるものだが、欲そのものが正当化される現代社会では、既に失効した観念ともいえる。

 面白いのは、この物語は彼らの欲望する対象(瘤を取る事)の価値を否定するのではなく、その対象に向かう過程で欲望を持つ事を否定的に扱っている、という点である。清貧である事を重んじる思想は、歴史上数多存在したが、それらは物質的価値より精神的価値を重視する、言い換えれば俗性の排除を提唱するものである事が多かったように思う。
 この話は、欲を持たない事が欲を実現するという、逆説的な経験則を表している。つまり、一見失効しているかのように見えたこの物語が説く価値観は、その隠れた功利的発想の点で、実は未だに有効であると、考える事もできるのである。




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