2023年2月18日土曜日

久々にタイピングゲームをやると面白い

皆さんは最近タイピングゲームやってますか?

タイピングゲームと言えば、小中学校のパソコンの時間に、強制的にやらされた思い出がよみがえりますが、それ以降まともにやった記憶がありません。

当時は非日常的な楽しみを味わえたものの、その後就職して毎日のようにパソコンで入力する仕事に従事する日々になると、もはやタイピングを娯楽として感じられなくなってきたのも、遠ざかった原因かもしれません。

という事で、最近ネット界隈で話題になっているAnkeyというタイピングゲームにチャレンジしてみました。

結果は…

『Ankeyの使い方』のプレイ結果のスコアは 1130 でした。
順位は 361位 でした!
#Ankey 作って楽しくタイピング練習ゲーム #その他 #タイピング


・・・仕事で毎日つついている割には、微妙にミスってなんか恥ずかしい結果。

タイピング、練習します。


2022年6月23日木曜日

『宇治拾遺物語』  巻第二ノ十四 「​ 柿の木に仏現ずる事」


おはなし


 昔延喜の御門御時五条の天神の辺に大きなる柿の木の実ならぬあり その木の上に仏現れておはします 京中の人挙りて参りけり 馬車も立て敢へず人もせき敢へず拝み喧騒りけり 
 かくするほどに五六日あるに 右大臣殿心得ず思し給ける間誠の仏の世の末に出で給ふべきにあらず 我行きて試みんと思して 昼の装束美はしくして 梹榔の車に乗りて 御前多く具して集まり集ひたる者ども退けさせて 車かけ外して榻を立てて 木末を目もたたかず 他見もせずして凝視りて 一時ばかりおはするに この仏暫しこそ花も降らせ光をも放ち給ひけれ 余りに余りに凝視られてし侘て 大きなる糞鵄の羽折れたる 土に落ちて惑ひふためくを 童部ども寄りて打殺してけり 大臣はさればこそとて帰り給ひぬ さて時の人この大臣をいみじく賢き人にておはしますとぞ評判りける


雑感


仏の登場がいかにも俗っぽい柿の木の上だったり、右大臣が只管凝視することで仏を地に落としたり、何かと面白いポイントの多い話。描かれるのは、聖なるものとそれを暴こうとするものの対立する構図である。

読んでいて自然と頭に浮かんだのは、ゴーストライター騒動の佐村河内氏のこと。社会的には抹殺されたも同然の状態の彼も、打ち殺されなくて良かったと思うべきか。そもそもこの偽仏も、死に値する罪を犯したとは思えないのだが、聖を騙るものに対する制裁の苛烈さは、昔から変わらないようだ。こうした「仏殺し」は、今でも至る所でみられる。右大臣よりも、むしろ庶民の目の方が恐ろしい時代である。





『宇治拾遺物語』 巻第一ノ八 「​ 易の占ひして金取り出したる事」


おはなし


 旅人の宿求めけるに、大きやかなる家の、あばれたるがありけるに、よりて、「ここに宿し給ひてんや」と言へば、女声にて「よき事、宿り給へ」と言へば、皆おりゐにけり。屋、大きなれども、人のありげもなし。ただ女一人ぞあるけはひしける。  かくて夜明けにければ、物食ひしたためて出でて行くを、この家にある女出で来て、「え出でおはせじ。とどまり給へ」と言ふ。「こはいかに」と問へば、「おのれが金千両を負ひ給へり。その弁へしてこそ出で給はめ」と言へば、この旅人従者ども笑ひて、「あら、しや、さんなめり」と言へば、この旅人、「しばし」と言ひて、またおりゐて、皮籠を乞ひ寄せて幕引きめぐらして、しばしばかりありて、この女を呼びければ、出で来にけり。
  旅人問ふやうは、「この親は、もし易の占ひといふ事やせられし」と問へば、「いさ、さ侍りけん。そのし給ふやうなる事はし給ひき」と言へば、「さるなり」と言ひて、「さても何事にて『千両の金負ひたる、そのわきまへせよ』とはいふぞ」と問へば、「おのれが親の失せ侍りし折に、世の中にあるべきほどの物など得させおきて、申ししやう、『今なむ十年ありて、その月にここに旅人来て宿らんとす。その人は我が金を千両負ひたる人なり。それにその金を乞ひて、たへがたからん折は売りて過ぎよ』と申ししかば、今までは親の得させて侍りし物を少しづつも売り使ひて、今年となりては売るべき物も侍らぬままに、『いつしか我が親の言ひし月日の、とく来かし』と待ち侍りつるに、今日に当たりて、おはして宿り給へれば、金負ひ給へる人なりと思ひて申すなり」と言へば、「金の事はまことなり。さる事あるらん」とて女を片隅に引きて行きて、人にも知らせで柱を叩かすれば、うつほなる声のする所を、「くは、これが中に宣ふ金はあるぞ。あけて少しづつ取り出でて使ひ給へ」と教へて、出でて往にけり。
  この女の親の、易の占ひの上手にて、この女の有様を勘へけるに、「いま十年ありて貧しくならんとす。その月日、易の占ひする男来て宿らんずる」と勘へて、「かかる金あると告げては、まだしきに取り出でて使ひ失ひては、貧しくならんほどに、使ふ物なくて惑ひなん」と思ひて、しか言ひ教へて、死にける後にも、この家をも売り失はずして今日を待ちつけて、この人をかく責めければ、これも易の占ひする者にて、心得て占ひ出して教へ、出でて往にけるなり。
  易の占ひは、行く末を掌の中のやうに指して、知る事にてありけるなり。

雑感


違う主体の力を信頼した母。その易者が娘の要求に対して占い、自分の意図を理解するであろうという所までを、占いによって知ったのか、あるいは読んだのか。占いと読み。全て占いに出ていたとしたら、やや味気ない話である。私はそこは彼女の読みであったと思いたい。先読みとは対象を信頼することである。全知の硬質な占い師から、他力に縋る人間的な母親へ。

2016年11月9日水曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ三「鬼に瘤取らるる事」


おはなし


 これもいまはむかし。 右のかほに大なるこぶあるおきなありけり。 大よそ山へ行ぬ。 雨風はしたなくて帰にをよばで。 山の中に心にもあらずとまりぬ。 又木こりもなかりけり。 おそろしさすべきかたなし。

(wikisourceより引用 冒頭部のみ)

雑感


 以前テレビの深夜番組で、昔話のあらすじを町行く人に聞いて回るという企画を、やっていたことがあった。慣れ親しんでいる筈の物語であっても、いざ説明しろと言われると難しいようで、断片的にしか思い出せなかったり、自らストーリーを創作し出したりと、苦戦する人が続出していた。その中の一つに「こぶ取り爺さん」も取り上げられていたが、挑戦者達の惨敗具合は特に酷いもので、そもそも“小太り爺さん”ではないかという勘違いをはじめ、まともにストーリーを思い描けない者も多くいた。

 こぶ取り爺さんが浸透度の点で他のメジャーなおとぎ話に見劣りするのは、ラストの不条理性に原因があるかもしれない。無欲の爺と有欲の爺が対照的な結末を迎える事で、欲を持つ事を戒めるものだが、欲そのものが正当化される現代社会では、既に失効した観念ともいえる。

 面白いのは、この物語は彼らの欲望する対象(瘤を取る事)の価値を否定するのではなく、その対象に向かう過程で欲望を持つ事を否定的に扱っている、という点である。清貧である事を重んじる思想は、歴史上数多存在したが、それらは物質的価値より精神的価値を重視する、言い換えれば俗性の排除を提唱するものである事が多かったように思う。
 この話は、欲を持たない事が欲を実現するという、逆説的な経験則を表している。つまり、一見失効しているかのように見えたこの物語が説く価値観は、その隠れた功利的発想の点で、実は未だに有効であると、考える事もできるのである。




2016年10月27日木曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ二「丹波国篠村に平茸生ふる事」


おはなし


 これも今はむかし。 丹波国篠村といふところに。 年比平茸やるかたもなくおほかりけり。 里村のものこれをとりて人にもこゝろざし。 またわれもくひなどしてとしごろすぐるほどに。 その里にとりてむねとあるものゝゆめに。 かしらおつかみなる法師どもの二三十人ばかりいできて。 申べきことゝいひければ。 いかなるひとぞととふに。 この法師ばらはこのとし比も宮づかひよくして候つるが。 このさとの縁つきていまはよそへまかり候なんずることの。 かつはあはれに。 もしまたことのよしを申さではとおもひて。 このよしを申なりといふとみて。 うちおどろきて。 こはなにごとぞと妻や子やなどにかたるほどに。 またその里の人の夢にもこの定に見えたりとて。 あまた同様にかたれば。 心もえでとしもくれぬ。 さて次のとしの九・十月にもなりぬるに。 さき\"/いでくるほどなれば。 山に入て茸をもとむるに。 すべて蔬※1おほかたみえず。 いかなる事にかと里国の者思ひてすぐるほどに。 故仲胤僧都とて説法ならびなき人いましけり。 この事をきゝて。 こはいかに。 不浄説法する法師平茸にむまるといふことのある物をとの給ひてけり。 さればいかにも\/平茸はくはざらんにことかくまじき物とぞ。

(wikisourceより引用)

雑感


律儀に別れを報告してくるあたりに不浄の僧の改心が伺えるが、物語の筋にブランクがあり、すんなりと呑み込めない。平茸に転生してしまった法師たちは、なぜその境遇を脱することができたのだろうか。美味しく食されたことで成仏したのか、あるいは村人たちに噛まれることで償いを済ませたということなのか。

また、平茸に転生した法師は数十人いるようだが、全員が同じタイミングで解放されたのは何故か。与えられた情報から読み取るに、個々に食されることで平茸から解き放たれていったというより、それぞれの被食の集積が臨界点を突破したことで、集合的に離脱したように見える。どこの世界でもチーム成績というものは大事なようだ。

もう一つ気になるのは最後の一文。これを読む限り、平茸を食することを推奨されてはいないようである。好ましくない存在からの感謝という形で、警鐘を鳴らすという構造は、巻第一ノ一「道命阿闍梨和泉式部の許において読経し五条の道祖神聴聞の事」と同じもの。語り手はアイロニカルな仕掛けが好みらしい。



2016年10月26日水曜日

『宇治拾遺物語』 巻第一ノ一「道命阿闍梨和泉式部の許において読経し五条の道祖神聴聞の事」


おはなし


今はむかし。 道命阿闍梨とて傅殿の子にいろにふけりたる僧ありけり。 和泉式部にかよひけり。 経をめでたくよみけり。 それがいづみし*きぶがりゆきてふしたりけるに。 目さめて経を心をすましておよみける程に。 八巻よみはてゝあかつきにまどろまんとするほどに。 人のけはひのし*ければ。あれはたれぞととひければ。 をのれは五条西洞院の辺に候おきなに候とこたへければ。 こはなにごとぞと道命いひければ。 との御経をこよひうけたまはりぬることの生々世々わすれがたく候といひければ。 道命法花経をよみたてまつることはつねのことなり。 などこよひしもいはるゝぞといひければ。 五条の斎いはく。 清くてよみまいらせ給ときは。 梵天帝尺をはじめたてまつりて聴聞せさせ給へば。 おきななどはちかづきまいりてうけたまはるにをよび候はず。 こよひは御行水も候はでよみたてまつらせ給へば。梵天帝尺も御聴聞候はぬひまにて。 おきなまいりよりてうけたまはりてさぶらひぬるとの。 わすれがたく候なりとのたまひけり。 さればはかなく「さい」よみ奉るとも。 きよくてよみたてまつるべきとなり。 念仏読経経威儀をやぶることなかれと。 恵心の御房もいましめ給にこそ。

(wikisourceより引用)


雑感


こういった仏教説話を正しく読み解く為には、仏教についての専門的知識が当然の如く必要になるが、当ブログではそういった正当な読みは採用しない。かっこつけて書いたが、要は知らないだけである。だが正しい読みのできない者が、テキストについて何も書いてはならないとすると、少しもったいない。リテラシーのない人間なりに、読んで思ったことを書き連ねたい。

この話は、卑しい翁からの感謝を通じて、行水を怠った僧の横着を指摘しているようだ。この翁が文字通りの老人を意味するのか、何らかの精霊を表しているのかは知らないが、逆説的に警告するという構造は興味深い。

ただ常識的な現代人の感覚からすると、この語り手からは強いエリート主義の香りが漂っているように感じられる。宗教的文脈を抜きにすると、今日のフィクションで前面に押し出すのは難しい思想だとは思うが、その違和感が楽しい。求道者は下にかまっていられない、というのもある意味真実だろう。